酷く、穏やかな秋宵だった。
風は見込んだ通り僅かな漣を湖面に立たせるだけに留まり、
静に響く虫の音よりも、彼の言葉は己に届くに易く、
同じ東方情緒を共する身としては、矢張り秋と言う季節は殊更に風情を際立てる物だと
彼の立ち振る舞いを見て改めて思う次第であった。
「天狗の抜け穴」は実在する。
嘗ての日記にも記したが、其の都合で彼は「向こう側」から一つ仕事を仕入れてきたらしい。
其の仕事の内容と言うのが、如何にも堅そうな南瓜の皮に彫刻刀を突き立てては
顔の様相を示す灯篭を彫ると言う物であった…そう、即ち神無月の末に行われる
あの祭、「はろうぃん」のあれだ。 俺自身が参加した事は殆ど無いが、毎年此の時候に
為ると街が橙色に色付き祝う様子は何度か此の眼で見てきた。
恐らく彼の事だ…正式な仕事では無く、向こう側の誰かに頼まれては
断るに断れなかった、と考える辺り俺の穿った見方に為るのだろうか。
其れはさて置き、名前と形式程度しか知らなかったはろうぃんの由来を聞く事が出来た。
よもや魔除けの儀式が由来であったとは予想外であったが…子供は良い、
悪戯か菓子かと、善悪の幅が可愛い範疇で済む。 菓子で悪戯を止めるも良し、
悪戯程度で済む戯れをするも良し。 其れに比べて、俗世に穢れるとそうも行かない辺り、
人間と言う生き物は矢張り難儀な物だとも言える。
…だが、きっと彼はそんな人間が好きなのだろう。
紗迦とはしゃいでは台所の天井を焦がした件、更に言えば家中に香辛料の馨を
ばら撒いた件は一笑に伏されてしまった。若し、何かしら難儀が在る為らば
改めて詫びねばと思っていた矢先に、逆に紗迦の料理に付き合った事に労いの
言葉を掛けられてしまった。 そうか、矢張り彼は
身に覚えがあるのか。近況を訊かれた。
――…隠す必要も、或いは言葉も濁す必要も無いと識って居たからこそ
随分と弱音を吐いた気がする。 結局の所、俺自身が未だ自分の背負う何かに関して
迷っている物がある…と。 此の侭己の過去を探る旅を続けるべきなのか、
其れとも教育者の端くれとして、普遍の倖を得て生きて死ぬべきなのか。
硝子の中に盛る焔の如く、未だ俺の中で復讐の修羅は生きて居る。
何者かが描いた絵図の上に居る自身は、此の侭何も識らず朽ち行く事が本当は
倖なのかと迷っている俺も居る。
――…彼は常と変わらぬ真意の読めぬ笑みを絶やさぬ侭、
初めて、俺の名を呼んだ。
はろうぃんの由来、神に見捨てられた男の物語。
神も悪魔も其処に居ない為らば、其処こそが「人」の居る場所。
そして、此の街は其処でも無い神も悪魔も、そして人も居る場所だ。
人は、独りでは生きていけない。
余りに当たり前の事実に辿り着く事に、どれ程の刻を要した事か。
今為らば、貴殿の言う事を信じる事が出来る。今、為らば。
――…紗迦は。
母の事を覚えていた、と伝えて於いた。
他者の秘密を濫りに話すのは、良く無い事だと判って居たが彼には伝えて於きたかった。
誰よりも彼女の事を、護り続けて来たのは彼に他ならない。
誰よりも、幼少の日々の彼女を導き続けたのは彼に他ならない。
刹那の黙は、どれ程の重さを孕んでいたか。
それでも、彼は善かったと笑ってくれた。
<クルト湖 / 火澄様>